無邪気なアホになりたい
ども、ぐぐーるっす。ふと、思った。
なんか一生懸命生きるの飽きたなって。まぁ元々そんなに頑張って生きてるわけではないんだけどね。
人に気を使って、やらなきゃいけないことをこなしてって、金と人のために生きてる感をまぁ何年かおきに感じる。生きるために生かされてるっていうの?生活を維持する努力?
んで、最近、アホに生きたいなって思った。中学生くらいの楽しい感じで生きたい。今までの人生で多くの人にあったけどこういう人たちがいた。彼らはこんな言葉で表された。子供っぽい、ニコニコしてる、いつも楽しそう、お馬鹿。彼らは周りの人たちから愛されていた。一言で言うなら無邪気。
おれも無邪気に生きたいのだ。どうすればいい?
考えた、無邪気さでは他の追随を許さない生き物。子供。
子供は無邪気
子供って無邪気だよね。まちなかで子供がトコトコ歩いてるのを見ただけでなんかほっこりする。
まずなんであんなに無邪気なのか考えてみる。
遊びを楽しむ
子供は遊びの達人、子供の頃、横断歩道の白線の上を落ちずに歩く。ちょっと高くなってる段差を落ちないように歩く。石ころを家まで蹴っ飛ばして帰る。そんなことをやった覚えのある人、または子育て中に子供のそういう部分を見た人もいるんじゃないかな。
自分の友だちに聞いてもみんなやってたし、自分の子供もやってた。
これって面白い。誰かに教えてもらうわけでもないのにみんなやってる。そこから考えると子どもたちは自分で思いついてやってる。
他人からの評価を気にしていない
子供は自分と他人を比較しない。とても楽しい時間を過ごしている。遊びには他人の評価は必要ない。自分が楽しめるかどうかが大事だ。
無邪気を潰す魔の手
しかし魔の手が忍び寄る、親にはよそのこと比較されて、ものを言われる。学校に行けば点数で比較される。
こうして子供は他人と比較することを覚える。自分の基準で楽しめた遊びに他人の評価を持ち込むことでつまらなくなる。
大人の無邪気はアホ扱い
さて無邪気の敵は人との比較とわかった。これをやめ、遊びを楽しめば無邪気になれそう。ほかに大人が無邪気を目指すの邪魔になりそうなものはなんだ!
おう!かかってこいアホでいい!社会的評価なんぞ元々ないも同然。捨ててやる。っていうか誰だっけ?
でもなんでアホとして扱われるのか。それは多分自分たちが見失ってしまった楽しさを持ち続けているから。やっかみだな。
でも本当は惚れられます。自分が本当は望む姿をもっているから。それはさきほど話した知り合いを見てればわかる。なんだかんだ言っても彼らは愛されていた。まあ愛されたいわけじゃないんだ。ぼっち好きだし。
ならばアホになろう
よし、問題はクリアになった。アホになろう。アホをばらまいて世の中をホッコリさせたる。